よっぺ

将来の夢はバンドマン。

 Over

2018年5月13日をもって同志社大学体育会陸上競技部を引退した。

 

僕は長距離種目が専門のロングパートに所属する4年生だ。ロングパートは冬に駅伝があるので、12月に引退するのが慣例だった。

そして、僕は早期引退という形でそれを破った。

 

同期や後輩から「なぜこのタイミングで引退するのか」「絶対後悔するぞ」「全く納得できない」など痛烈な言葉をもらった。

 

密度の濃い時間を過ごした仲間ほど、発する言葉が尖っていて、僕の心に何度も突き刺さった。

 

それでも僕は引退の道を選んだ。

 

僕自身、みんなを納得させられるような理由を言語化できないまま引退したし、恐らく今後もみんなを納得させられるような理由を言語化できない。

 

 

ただここに記した全てのことを持って、僕は競技人生に一区切りをつけたい。

 

これは僕と陸上競技の全てだ。

 

 

* * * * *

 

僕は高校入学とともに陸上競技を始めた。

 

強豪校ではない普通の進学校だ。

 

朝練習ができない代わりに朝学習というテストがあり、授業後の練習は夏季が1時間半、冬季は1時間程だった。合宿は無いし、僕たちが走る校庭の300mトラックは野球部の内野グラウンドを突っ切る形で弧を描いていた。

 

そんな環境の中で全国大会に出場するという目標を立ててひたすら練習をした。

 

悔しい試合は数えきれないほどあり、嬉しかった試合は数えられるほどしかないが、そんなアンバランスな比率でも自分の可能性にワクワクしながら走り続けることができた。

 

高校2年生のシーズンは5000m 16'44"65から秋には15'10"96まで伸ばすことができた。試合に出れば試合に出るだけ結果が出るような気がしていた。どこまでも行ける気がして、本気で全国大会に出られると思っていた。

 

 

だけど、現実は甘くなかった。

高校3年生の春を目前にして僕は怪我をした。

 

 

顧問の先生と評判のいい整骨院を飛び回った。食事に気を遣った。何度も何度も諦めようと思った。それでも、少しの可能性を捨てきれず、怪我を治すために全てを犠牲にした。

 

 

治った頃に最後の総体の地区大会が開催された。それを何とか通過し、県大会に駒を進めた。

その日から県大会まで残り3週間弱。急ピッチで体を仕上げた。食べたいものは全て我慢し、体重を2kg落とした。大会前日に遠足が被った時はさすがに神様を呪殺させて頂きたく存じ上げたが、班行動の時間はもっぱら地面に腰を下ろし、疲労の蓄積を最大限に防いだ。

 

ここまでくるといよいよ頭がおかしくなっていたに違いない。

でもそれら全てが僕の正義であり、正義に反することは許されなかった。

 

 

県大会当日。

人生で最も泣いた日になった。

 

霞んで見えた電光掲示板は僕が予選で敗退した現実を突きつけていた。

左手の甲にマジックペンで書いた『魅せる』という文字は汗で滲み、握りしめた拳が地面を何度も殴っていた。

 

 

* * * * *

 

2015年4月。

 

僕は同志社大学の体育会陸上競技部に入部した。このままでは終われなかった。

 

「握りしめた拳は地面を殴るためにあるのではなく、天に高く突き上げるためにある」と古代ギリシアの哲学者・アリストテレスが言っていたからだ。嘘だ。

 

何にせよ、再び陸上人生がスタートした。

 

しかし、1年、2年と思うような結果を残す事なく時間は過ぎ去っていった。

僕は結果が出ない自分にも慣れてきていた。自分の中から沸々と湧き出てくる情熱は日に日に無くなっていた。

 

それでも口だけは達者で、言い訳や屁理屈を自分の前に並べて高い高い壁を作り、自分を守っていた。

「もう少し練習すればタイム出るし」「足が痛かったからさ」「昨日夜更かししちゃって」気付いた頃には難攻不落の「言い訳の要塞」を築き上げ、どんなレースをしても心から悔しがることは無くなっていた。

 

僕は大学生活3度目の春を迎えようとしていた。

 

この時ようやく高校時代の僕が帰ってきた。

 

食べたいもの、飲みたいものは全て封印し、栄養摂取、質の高い睡眠、体のケア、全て抜かりなく取り組んだ。

Twitterの登録名は「規則正しい生活」へと変わり、いよいよ僕は僕じゃなくなった。

 

そして、大学3年生の4月、3年と5ヶ月ぶりに5000mの自己ベストを更新し、目標としていた関西学生対校陸上選手権大会(関西インカレ)の出場権を得た。

 

再びどこまでも行けるような感覚が戻ってきた。人生で2回目のこの感覚を例えるなら翼を授かったような感覚で、ちなみに僕はRedbullよりMonster energy派だった。

 

5月の関西インカレまで着実に練習を消化した。先輩と「14分台を出さなければ坊主にする」という誓いを立て、いよいよ逃げられない状況が出来上がった。

 

 

号砲が響いた。

 

僕は集団の1番後ろを走っていた。

落ちてくるランナーを1人、また1人と抜いていく。

 

地鳴りがするほどの応援に背中を後押しされ、跳ねるようにゴールに近づいていく。

 

心臓が激しく脈を打ち、体の隅々まで酸素を運んでいく。その全てに心地よさを感じる。

 

僕が気付いた時には体はゴールラインを越えていて、握りしめられた拳は天に高々と突き上げられていた。

最高だった。

 

 

* * * * *

 

僕はその年、1500mの自己ベストも更新した。

 

積み木を一つ一つ積み上げていくように、ゆっくりと完成へと近づいている。このままいけば冬の駅伝、4年目の関西インカレは最高の形で迎えられる。そんな自信があった。

 

しかし、積み上げてきたものが崩れていくのは一瞬だった。

 

僕は夏の終わりに体調を崩して、走れない日が何日か続いた。 そして、この小さな狂いが全てを壊していった。

 

僕は秋から冬にかけて、何もできずに終わった。

何度走っても過去の自分が前を走っていて、その背中はどんどん離れていく。僕は息を切らしながら走っているのに、そいつは余裕そうな顔で走っていて、こちらを振り返ろうともしなかった。

 

2018年2月。

僕は再び故障した。 刻一刻と迫る4年目の関西インカレに焦りを覚え、やるべき練習の順番をすっ飛ばして強度の高い練習をしたからだ。

 

やってることが高校時代と変わっていないことに気付く。

あの時も最終学年で、春を目前に怪我をしていた。

何も変わらない自分に嘲笑しつつ、また治るから大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 

ただあの時とは違うことが一つあった。

怪我は桜が咲く季節になっても治らなかった。

 

 

* * * * *

 

1年前と変わらない耳をつんざくような号砲が5000mのスタート地点に響き渡る。

 

勢いよく飛び出していくランナーたちの中に過去の自分を見つけた。そいつの背中を追う。僕は息を切らしていて、乱れたフォームで必死にもがいていた。そいつは僕を置き去りにして、跳ねるようにゴールへと向かう。

 

僕がラスト1周を迎える頃、そいつは拳を天に高々と突き上げてゴールしていた。

 

痛み止めが切れた足は力が入らなくなっていて、張り裂けそうな心臓は体に酸素を供給できていなかった。

 

僕がゴールした時、そいつは顔をクシャクシャにしながら喜んでいた。

僕は走ってきたトラックに向き直り、深く、深く、お辞儀をした。

 

顔を上げると過去の自分は消えていた。

 

僕は全てと決別してその場を後にした。

 

 

* * * * *

 

僕はもう走らない。

 

いつのまにか過去ばかりが綺麗に見えるようになっていた。

 

未来にワクワクする、あのどこまでも行ける感覚を味わえなくなった。

 

怪我をしたから?しんどい練習に耐えられなくなったから?駅伝が苦手だから?遊びたいから?

全てが当たってるようで違うような気もする。

 

いずれにせよ、僕の人生はまだまだ続いていく。

時計の針は戻せないけど、未来には確実に向かっている。その覆せない事実に向き合い、今日も僕は過去の自分を越えようとしている。